1さん、2さん、3さんの記事を書いて、二週間が経ちました。
「私」の捉え方をどうやってするのかは、その時期によるようです。
1さん、2さん、3さんを使っている時の、各さんでも、「これからはずっとこの状態だ」と確信(実際は違うのですが)することはあります。ー「私」をかためている。
今日は、「私」がかたまる時のお話をします。
先の時は自分の中の成分を分析し、「未来に向けて」「ずっと」と言っています。
調子の良い時、どんな成分も見つけずに、感じる自分がまとまりとしてあり動いています。
平気なのです。(ー心地よく生きることは、ここでは目指さないでおきましょう。)
今、私は、不安を感じて書き出しました。
この恐れ、の正体を、正しく書くのはとても難しいです。すぐに、納得できる他のものに姿をくらましてしまうからです。それでも例として、沢山書き出してみましょう。
まさに、かたまってしまう恐れだったんじゃないのか。
ある感情がそういることを、自然ならそのまま受け入れるけれど、
少しずれた状態にある時に、持ち物の塊がおそいかかるような、最近の記憶が、要望してくるような熱を感じる。
激しい混乱ではなく、気配として感じた。
そしてその時の恐れ(揺らぎ)は、ある感情、ではなく入れ物の、形の、方にあるのではないでしょうか。
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始めにタイトルをつけた時が、最もよく理解している。
同一化とは、私だと認めてしまうことを、叫びたかったのではありませんか?
不幸だとは限りません。普通の日々でも、あれ、いつの間にか、同じ、私やなあと思うのです。
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次は、この叫びを取り外して考えてみましょう。
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