あの日々を思うと、今はまだ自由で、可能性に溢れているんだと、思えてくる。
私の時間が流れ出す。
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「私」が生き生きと生きるには、了解が不可欠なんだ。
これは自意識過剰じゃない。
「あの人」と思われる同一性の上に、「私」を一致させていること。
特別なケースと普段と、どちらでもいえる。
それが、「出会う人」ごとに(ある時期、ある場所、ある人)ごとに変わる時、自分の中の線が、糸が、ガタガタとなる。
何だろうこれは。
ー可能性があるのに、してない時、混乱をきたすのである。
「そりゃ人ごとに変わる」それが自然だったり、運命づけられているものだったら、私は狂わない。
可能性があるのに、何かを塞ぎ、何か見えているものを慌てて塞ぎ、整合性をとる、各地の人へ糸を張る、理論の輪、納得の輪(外から見た)、私はこの時、大きい言葉によって動いている、「これが一番適性の良い」恐さと速さ。
ーこうして実況を書くと、人を恐れず、自然のままに生きよ、と人生訓が降りてくる。
けれどここまで見えたんだから、何が起こったのか書いていなくちゃ。
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実況例とその前に書いたもの。別にせよ。
焦りの動きと喪失の起こる事、別の悲しみとして記録せよ。
焦りの動きで残る悔いは、本題がうまく繋がらなかったこと。
また、例をプラスせよ。
その時あなたは1さん的な人格をまとっていた。そして、ある一方で3さんがずっと出ていてたのに、その接触によって、立ち行かなくなった。
生息域を伸ばすこと。伸ばし方。
自然とそうなる中で、変化が起こっても、また自然とそうなる中で、波になり、受け入れられること。そうなる所で、混乱せずそうなれること。
本性として見られやすい幻説(言説)
1さん>3さん
裏人格としての、2さん>
単に1さんが一番社会性が高く、2さんが巷で言われているような裏人格の典型っぽいから、
「納得されやすい」と、私が強く思っておびえている。
3さんのように喋れなくても、「本当は」1さんのように喋れるんでしょ、と。
人格の間だけでなく、言説の間(その中には人がいっぱいいる!)も交えている。
「自然とそうなる」と「幻説」を同時に持っている人。人々。
どんな説が君臨してる?みよう、とする、(こんな事こそ、とっぱらっていいのかも)
(けれど、出てきたのは、どうして?どうやって?ひっついて、出てきた)
私はちょっと理性がついた。
別の人でいる自覚があった。
みんな生きたい。
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ある行為は別の人格を下げる。
(スレッドのage、sageみたいに)
こうして未来は一つになっていくが、〜ガクンと変わる両方において、「あの人」と認められたらどんなに〜「また生きていられる!」〜
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記録して、分析したい欲と、
人生訓により生きたい欲で、
このコーナーは為っている。
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色んな仕方はあるだろう。
誰、であるか、私がある程度決められる。
そして未来を見ていくのか。
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